自粛要請という言葉に潜む危機

自粛と要請で一つの言葉を構成していることに違和感を覚えるのは私だけなのだろうか。「自粛」は自粛する人が自らの意志によって自らの行動を控える行為だ。他からお願いされたり、ましてや強制されることではない。だから、自己以外のなにものかの意図によって自己の意志を抑制されるべきではないと思う。

民主主義は人の自由や権利を保証しているが、責任や義務と一体だと理解している。それはちょうどコインの裏表のように同じものの違う側面を指しており、それぞれ単独では存在しないし主従関係もない一体のものだ。だから、我々は自由や権利だけを主張することはできないし、責任や義務だけで人を断じることもできないはずだ。しかし現実はそのように見えない。

コロナ禍のようなことがあるとはっきりするが、法を犯している訳でもないのに自己の権利を行使すると他人の権利を侵害してしまうことがある。そんな時、みんなが自由や権利を主張するばかりで抑制をしなければ、軋轢で社会はまともに機能しなくなる。人との関わりで絶えず調整を迫られるのは骨の折れることだが、みんながそれぞれにやり続け、影響を及ぼし合う緊張の上でしか民主主義のバランスは保てないと思う。民主主義における一致団結とはそういうことではないだろうか。

そうだとするならば、自由や権利は認められているのだから、世の中の均衡を保つ術は自己を抑制する意志が頼みになる。つまり、要請によってではなく自らの意志によって抑制は行使されるべきだと思う。

PAGE TOP