住むということ 住宅難という不条理の克服 その2

弐 方針

住む行為自体は人によってそれほど違わないはずだ.寝て起きて食べて排泄し,語らい働き遊ぶという程のことに大した差はない.
まず,いま住むことに求められる質について考える.金持ちや生活に余裕のある人はこの論考に関係なく高級マンションに住もうが家を建てようが自由にすればいいと思う.しかし,余裕がない状況にいる人も住む質は保証されなければならない.
誰にでも当て嵌まることだが,何事も及び腰では成就しない.前向きにことに臨めるかどうかは重要だ.そのために設計者ができることは,英気を養い前向きになれる場所を用意することだ.そしてその場所に必要な質は,月並みだが人を閉ざすにしろ人に繋がるにしろプライバシーだと考える.但し,コロナ禍を経て思うのは,求めるプライバシーは人による違いよりも,人のおかれた状況の変化による違いの方が大きいということだ.状況とは時代や地域のように公の物事から個人的な事情まですべてを指すが,他者と繋がる加減はそのときの状況によって変化する.コロナ禍は今の住宅がその変化を許容できないと指摘したのだと思う.そこで,人の置かれた状況の変化から考える.
国立社会保障・人口問題研究所[2]の2018年推計によると,人口減少局面になっても世帯数が増加し続けることは世帯規模の縮小を示しているとし,日本の人口のピークである2008年頃の一般世帯平均人員が約2.5人だったのに対し,2040には約2.1人になると推計している.また,この推計では家族類型別に世帯数を表1のように推計している.一般世帯の総数は2023年をピークに減少に転じるが,型3)は1985年がピークで既に減少に転じている.一方,型1)は2032年,型2)は2025年,型4)は2029年がそれぞれのピークでそれまで増加を続ける.そして,2040年の時点では,それぞれの家族の類型が一般世帯総数に占める割合は概ね,型1)39%,型2)21%,型3)23%,型4)10%,型5)7%になると推計している.

七十年前に日本住宅公団[3]がこれからの家族像として描いていた型3)のような核家族は2040年時点では典型ではなく型1)が主流になっている.さらに,型2)も型3)と同等で,二人世帯という括りで考えるならば,型4)の一部も含まると考えられ型3)を上回る可能性すらある.
そこで,2040年頃の世の中の様子を想像してみた.GDPが下がり社会保障は規模が縮小する一方で,格差はきっと拡がっているだろう.その時点では賃貸業は利益を上げ難い状況にあるが,住むところに困った人が社会問題になっている気がする.そうかといってそこから低額所得者向けの住宅を建てようにも,費用を回収できないため民間も行政も打つ手なしに違いない.ということはその時点でストックとなっている賃貸物件を充てるしかない.そうなると今のうちに建てた住宅が,その頃までに費用を回収し終わりプラスに転じている必要があるだろう.しかも,残ったものの住環境が劣悪だとスラム化するだけだ.物質は劣化するが,本質的に質の高いものは将来においても劣化しない.だから,いま質の高い住環境が用意できれば,その時の築年数によって自然なかたちで借り易い賃料に落ち着いた質の高い住宅を社会に供給することができる.そんなストーリーを描いている.
そこで,このストーリーを支える方針を考えてみた.可能性を広げるためには方針は少ない方がよく二つに絞った.
1)柔軟性のある間取り
2)屋外と親和性のある生活

1)柔軟性のある間取り

一般的に,これまでの賃貸住宅は一時住むだけだからという理由で住むことに対する質を蔑ろにしてこなかっただろうか.家賃設定のしやすい紋切り型の住居を供給することが多かったように思う.nLDKという価値観を貸主と借主が共有することで,借主にその価値観に従って住まうことを無意識のうちに強要してきたのが現実ではないか.コロナ禍を引き合いに出すまでもなく,日常はストレスに満ちている.そのストレスに耐えられているのは,住む行為を通じて日常の中で英気を養うことができているからだ.レジャーなどたまの楽しみを糧に日常を頑張っているという人もいるだろうが,本当にそうだろうか.むしろレジャーのために日常を犠牲にしているということはないのだろうか.たまの楽しみは+αであって,日々を生きるための英気は住む行為を通じて日常の中で養われないといずれ疲弊してしまう.
コロナ禍で突き付けられたことの一つに,家族のために用意された家で,家族といることが苦痛に感じる人がいたということだ.環境の整った家でも住み方次第ではいいところが機能しないこともあるだろうが,それは住み手が自分で考えるしかないことだ.だから,設計者は質の高いコンポジションを行い,住み手が自分に合わせてアドリブできるような住居を用意することが重要だ.それが柔軟性のある間取りということになるが,これだけではまだ不十分で,プライバシーを守りつつ同居人とどうつながるかとということが重要だ.居間や食事室のような公的スペースを介して各個室に出入りするということだけでなく,個室が公的スペースと一体化できることが必要だと思う.出入りできるだけだと,籠るか対峙するか二者択一になるだけで,これは窮屈やストレスの一因になってしまう.しかし,出入りの他に個と公のスペースが一体化できれば,アクティビティを共有する幅ができる.つまり,これを前提として住み手が調整できる間取りがここで言いう柔軟性のある間取りだ.このような可変性があるとルームシェア以外にも住と職を組み合わせたり,今から20年後に至る時代の変化も許容できるのではないかと期待している.

2)屋外と親和性のある生活

間取りを工夫しても,住む行為を屋内に限定してしまうと息苦しさが生じてしまう.そこで屋外との親和性を図る.各住戸にはバルコニーや庭などの専用の屋外スペースを設ける.そこはテーブルを挟んで会話ができる程度の広さを有し屋外の居室として位置付ける.高級分譲マンションならともかく,効果的に賃料に反映できない一般的な賃貸住宅では,室外機やゴミ箱を置いたり洗濯物を干すような実用的な使われ方しかしてこなかった.居場所にしていたのはせいぜい蛍族くらいだろうが,いまとなってはそれも憚られる.もっと誰もが屋内の延長として使るように積極的に利用すべきだと考える.そこは屋外だけ独立させて使うことも可能だが,窓周りに縁台のような設えをして屋内の延長として一体に使えることも想定している.
また、できるだけ敷地内には住人以外の人も通行できるフットパスを設けたいと考えている.そうはいっても条件が揃わないとなかなか難しい.接道長さが非常に長いか二つ以上の道路に接道していれば計画地単独でも可能だが,それ以外の場合は両隣や背中合わせの関係にある隣地の協力が必要になる.フットパスはその地域に住む顔見知り以外は入りにくい空間だ.そのことが邪な人に対してある程度の抑止効果を示すと同時に,その地域に住む人の緩い連帯感を生む.その安心感から,そのフットパスに面して住む人たちに開放感をもたらすと考えている.

その上で,規模に関して捕捉する.まず住戸面積を想定するために世帯類型から考える.前述の2018年推計では2040年時点では単独と二人世帯で少なくとも六割を占めている.同研究所は,世帯主が65歳以上のケースに絞ると,2015年に比べ2040年は,一般世帯総数に占める割合が型1)が1.43倍,型4)が1.19倍に伸び顕著な変化を示すと指摘している.特に型4)が減少傾向なのに対し,型1)は増加傾向での値になっているため,すでに独居高齢者が社会問題化している状況で,単独世帯住戸を増やす計画は意に反して流れに掉さす恰好になってしまう.そこで,高齢者に柔軟性のある間取りを用意し,例えば共通の趣味を持つ高齢者や高齢の親族などに二人組ルームシェアを普及し,それを屋外と親和性をもって集める.それは全体として緩やかな連帯を生み,独居高齢者の解消に資するとともに,住宅難を二人世帯住戸に集約して対策できることにも繋がる.そこで,過不足ない住戸面積として凡そ50m2を想定する.
また,建物の階数は二階建てを想定する.理由は三つ.一つ目は建設費をむやみに大きくしないためだ.商業的に考えれば,借り手が沢山いそうな場所に高層にしてでも多くの住戸をつくり,少しでも多くの利益を得ようとするのがこれまでの常識なのだろうが,2008年をピークに人口減少に転じている状況で,この考え方が適切だとは思えない.むしろ,ある程度の利益を得た後,細く長く社会に貢献する手立てを考えているのであって,派手な経済成長を続ける中で生まれたこれまでの商業主義的な思想を前提とはしない.
二つ目は日本中のどこにでも建築可能とすべきで,そのためには社会に十分根付いたものを踏襲したいからだ. e-stat[4]によると共同住宅の棟数において二階建ては4割以上を占めるほど普及しているため,二階建てが相応しいと考えた.
三つ目は屋外を優良な住環境にするためだ.親和性を図ろうとする屋外が,一日中日の当たらない湿った薄暗い場所や,小さな空が高層建築物の隙間からしか見られないところでは滅入るだろうし,お節介だが,今自分が生きる社会とは違う社会を生きる人を近くに感じられるように,人の行き交うグラウンドレベルに近いところで生活してほしいからだ.一等地に似合わないといって児童相談所の建設に反対したり,園児の声を嫌って保育園や幼稚園の建設に反対する社会なのは承知しているが,一日中自分としか向き合えないところにいたら参ってしまう.他にも生きる社会があると思えれば,少しは気が楽になろうというものだ.

PAGE TOP