行間の知性と品性

かつて常識は確かにあった。今、それはハラスメントと同義なのかもしれない。常識という言葉が使われるとき、行間や言外に、発信者と受信者が共有できる概念があった。前にも書いたが言葉は近似でしかない。伝える内容が複雑であったり繊細であるほど近似の誤差は重みを増す。だから、行間や言外の概念をを巧みに利用するのだ。これは人を人たらしめる知性だ。但し、知性は善用も悪用もできる。それは発信者の品性にかかっている。

この品性が欠けたときの症状の一つがハラスメントだ。例えば、パワハラは社会的立場などを言外の共有概念として利用している。品性のかけらも感じられない。或いは、政治家はことを起こす前に、「愚直に」「身命を賭して」とか並べ立て、その後に続く行動が正しいこととして国民と共有できるように、予め美化する刷り込みを十分に行う。その行動が善政なら、いずれ歴史が評価するはずなのに。。。そういえば、サミットか何かで得た合意を、歴史的成果だと自画自賛した大臣がいたが、何とあさましいことか。

また、品性を欠いた行間はSNSでも報道でもメディアで乱用されている。政治家同様、自分の意見が〈絶対正義〉であると認めらるように必死でアピールするものが沢山あるように思う。どんな意見も賛否両論ある状態こそが正常なんじゃないのか?他人の同意で自分を補強するためには、もしかすると単に人の気を引くためだけの場合もありそうだが、人を貶めることなどまるで意に介さないようだ。小さな子供が、意見を異にする相手よりも自分が優位に立つために、周りの人に「ね、ね、ね!」と賛同(自分の概念を共有すること)を求める様によく似ている。余りにも幼稚だ。謙譲の美徳という言葉も常識と同様に消えうせたか。。。

行間や言外の知性や品性を、こんな野暮な文章でつまびらかにしなければならない世の中はあまりにもつまらない。

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